学パロ第三部

ルカメイと見せかけたルカミクのメイ→ルカ

卒業生のお話




大した話はしていないはずだが、前列の生徒たちは熱心に私の声に耳を傾けている。
面白いのだろうか、こんな話を聞いて…。
「私を変える一番の原因は、一人の少女との出会いでした。斜に構えて、物事を真っ向から受け止めたことが一つとしてなかった私は、高校二年の半ばで、初めて人生で正面を向きました。」




誰もいないアパートに向かって一人歩を進める。
若干17にして、それに慣れてしまうというのはどうなのだろう…

私は、出会った時のメイコ先輩と同じ年齢になっていた。

その日は、日替わりの病気にかかったので早退していた。
仮病という名の重病である。
早く帰ったからといって何をするわけでもないが、学校にいるのはもっと嫌だった。

ぼろアパートの階段は、どんなにそっとあがってもカンカンと音を立てる。
この音は嫌いだ。
つま先だけで三階まで登りきる。
これも、もう癖だ。

予測していなかったことが起こると、人間の頭はそれついていけなくなる。
私の頭の中には、そんな出来た脳みそは入っていない。
階段を上ったさきに、見たことのない景色が広がっていた。
このアパートが古くて、ぼろくてさらに汚いことには変わりない。

異分子。
私の目に映ったのは、見覚えのある制服を着た小さな女の子だった。
ツインテールにした翡翠色の髪の毛が綺麗だった。
なにより、扉の前でしゃがみこんでいる姿にデジャヴをおぼえた。

真新しく型崩れのない制服は、肩や袖の長さがあっていなかった。
ただでさえ細いであろう体を、大きめに作られた制服がさらに小さく見せていた。
座り込む扉にかかる表札は「初音」。
ハツネサン。
子供いたんだ…
作りが対象になっているであろう隣の部屋からは、度々男女が睦みあう声が聞こえてきた。
それが、別の部屋ならまだしも寝室だからたまんない。
我慢できなくて、壁を蹴飛ばすとしばらくは黙るのだが、あまり間を空けず再開するので最近は諦めている。

窓が空いているわけでもないのに。寝室にいるよりも鮮明に聞こえてきた。
数年前に全て終わったはずなのに、あの頃の記憶がよみがえる。
夕方、早く終わった塾の帰り、中から聞こえてくるのは母の悲鳴と父の罵声、複数の男たちの卑下た笑い声…
全ての音をシャットアウトしたくて、痛みを感じるまで耳を強く抑え込んだ。

小学校の卒業とともに終わった、私の悪夢。
膝を抱え、耳をふさぐ少女を見つめる。
この子の悪夢はまだ終わっていない。

漏れ聞こえる女の声がだんだんと高さを増す。
どっから出てんだ、こんな声…
少女の父の名前か…女が男の名前を叫ぶ。

こんな汚いもの、娘に聞かせやがって…
気付いた時には、少女の腕を掴んで自分の部屋の中に引き込んでいた。
驚いている少女の頭をがちっと抑えて、耳をふさいでやる。
ここなら、聞こえない。
聞こえないけれど、ああいう声や物音は耳の奥に残ってしまうものだ。
全ての音をさえぎるように、少女の耳をふさぐ。
彼女の体は、驚きか緊張か、異様なまでに固まっていた。

一体何分、そんなことをしていたのだろう。
玄関で突っ立ったまま。
少女の中で整理がついたのか、ふっと力が抜けて私に体を預けた。
「…聞かなくていい」
それが、私がこの少女にかけた、はじめての言葉だった。

落ち着いた彼女を、狭いリビングに連れていく。
散らかってはいないが、お客さんに出せるような気の利いたものは、この部屋には置いていなかった。

かすかに聞こえる声が、二回目の開始を伝える。
少女の前に温かいココアを置きながら、表情を窺う。
申し訳なさと…驚きだろうか…

「あの…いつも、こんなに……?」

続く言葉を想像する。
頭が弱いついでに、日本語も弱い私ははっきり言ってくれないと理解できない。

「いつも…こんなに聞こえるんですか…?」

あぁ、と思う。
声のことか…
確かに、父親のそういう場が他人に筒抜けというのは嫌だろう。
当時の私は、誰かにそれが聞かれているなんて考えもしなかったけれど…

「うん…まぁ…」
なんと声をかけてやればいいのか分からない。
メイコ先輩ならどうしただろう、私ならなんと声をかけてもらいたかっただろうか…
私だったら…きっと、ほっといてだとか関係ないとか…
気付いて少女の顔をまた、じっと見つめる。

「ごめん…迷惑だった…?」
一瞬きょとんとした顔の後、猛烈な勢いで頭を振った。
ツインテールがウサギみたいで可愛いなとぼんやり思った。

「い、いえっ!!…あの…嬉しかったです…」
素直に安堵した、良かったと心から思った。

「あたしのほうこそゴメンナサイ…」
それは、何に対する謝罪か…部屋にいること?それとも、声のこと?
もう少し、人の言動について分かるようになっておけばよかったと、柄にもなく思った。


少女はハツネミクと名乗った。
メグリネ先輩の後輩です、と笑って言った。
自分の胸元をちらりと見ると、バッヂはない。
カイト先輩のときから、私はネームバッヂを付けなくなっていた。

「知ってますよ先輩の事。お隣さんだし…」
有名人だし…と続ける。
そうか、私は咲音メイコを手なずけた巡音ルカだった。
一瞬で男子高生を伸ばしたり、足でパトカーを振り切る巡音ルカだった。
眼が怖い、とか雰囲気が怖いとか、近寄りがたいとか…

「怖く…ないの?」
「怖くないですよ。だって、クマやライオンじゃあるまいし…それに、先輩細いし。全然怖くないです」

にこにこと笑う彼女は、今までの私に縁のない種類の人間だった。
ミクの持つマグカップが、異様に大きく見えた。

自分じゃない人間が、同じ空間にいることが久しぶりで…楽しかった。
赤い影も、青い影も、隅のほうに追いやれるくらい、楽しかった。
でも…私には見えた。
見えなくてもいいものを見た。
マグを机に置くときに、ブレザーの裾から…まだ出来たばかりであろう痣。

「気になりますか…?」
突然すぎて、一瞬何のことか分からなかった。
主語が欲しい。
彼女が袖に手をかけて気付いた。
私の視線に気づいていたということか。

返事を待たずに、ミクは袖をまくりあげた。
細い腕には一面、痣や傷、やけど…

「…ごめん」
「先輩は、すぐ謝りますね。なにも悪いことしてないのに」

ミクは眉をハの字に下げて笑った。
悲しそうな、可笑しそうな、よくわからない、けれど少し滑稽な笑顔だった。
小さな、それでもしっかりした声でミクは私に話した。



お母さんがね、本当のお母さんじゃないんです。
本当のお母さんは、あたしを生んだときに一緒に死んじゃって…あたしが殺したようなものですよね…
幼稚園を卒園したあとです、あの人が来たのは。
最初は優しかった。
呼びたくなかったら、お母さんって呼ばなくてもいいのよって…すごく優しかった。
でも、それからしばらくして、その人は子供を産めない体だって病院で言われたそうです。

それからは地獄です。
父がいるときは優しい母親、二人きりになると叩かれたり殴られたり…
いつだったかの夏休みなんて、お昼御飯が毎日、カップラーメンだったことがあります。

父は優しかった。
いろんなところで気を遣ってくれた。
でも、あの人も同じです…体中傷だらけになれば、いくらあの女が演技をしていても気づくはずなのに…
見ないフリ…仕事からも、あたしからも、全部から逃げた。

小学校の中学年から塾に通わされ始めました。
最初は父が、あの女からあたしを遠ざけるためだと思っていました。
でも、それさえも違った。
家に、違う女を引きずりこむために、あたしが邪魔だったんです。

家に知らない女を連れ込んでいること、あたしは気付いてないと思ってるみたいです。
毎回毎回違う女のひと…いったい何度、あたしが鉢合わせしたとおもってるの…



とりあえず、ミクの眉間によった皺を親指でぐりぐりとほぐす。

「…つらかったね…」
思わず、漏れた言葉がそれだった。
貴女になにが分かるの、とでも言われるかと思った。
何度も言うが、私には、事態を迅速に処理できる脳みそは備わっていないのだ。

涙のわけが、私にはわからなかった。
「ご、ごめん…よく知らないのに、分かったような口きいて…」

鼻の頭を赤くして、頭をぶんぶんと左右に振る。
ずびずびと無言で泣いた後、落ち着いたのか口を開いた。

「そん、な風に…言ってもらったの、はじめてだったから…」
いきなり泣いたりしてごめんなさい。
ミクだって、すぐ謝るじゃないか…

誰かに心配してもらったことなかったから、嬉しかったんです。
真っ赤な鼻のミクを見て、数年前の自分を思い出す。

「辛かったら、ここ、きていいから」 私でも、メイコ先輩みたいになれるだろうか、そう思って精一杯笑いかけた。
気の利いた一言を探せないなら…

本当につらい時に、彼女の逃げ場所になってあげればいい。
私がかなぐり捨てた笑顔を、守ってあげればいい。
彼女が座り込む姿は、もう見たくない。

彼女の手の中のマグカップからは、もう湯気は出ていなかった。
それでもマグを握りしめるミクは、とても小さく見えた。

私でも、貴女の先輩になれますか…?






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